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生命と精神の一致 ―和泉賢太郎の日本画的宇宙


和泉賢太郎は、明快な方法論と独自なスタイルをもった画家である。彼は、和紙にボールペンで花や果実のかたちを描き、その上にアクリル絵具を塗っている。和泉は日本画科の出身で、大学に入学した当初は岩絵具を使っていたが、しだいに画用紙に油性ペンで描くようになり、さらに今日のスタイルに移行している。

興味深いのは和泉が、日本画に特有の岩絵具を使わない現在の作品を日本画と見なしていることである。彼は、日本画に対して独特なこだわりをもっている。この場合に日本画とは、日本に古くから存在していた伝統的な絵画を指しているが、和泉が注目するのは、伝統的な絵画における物の捉え方や空間のあり方である。つまり、伝統的な日本の絵画を成立させてきた本質的な要素である。そして、この本質的な要素が実現されているならば、どのような素材を使おうと日本画であると考える。

確かに和泉は、明確な輪郭線、平坦な塗り、装飾的な色彩、余白の扱い方など、多くの点を伝統的な絵画から受け継いでいる。しかし彼の絵画は、さらに深いところでも日本の伝統と結びついているであろう。このことを考えるために、和泉の絵画の制作プロセスに注目したい。

和泉の制作プロセスは、二つの段階に分けて考えることができる。第一の段階は、和紙にボールペンで対象の形を描く作業であり、第二の段階は、描いた形をアクリル絵具で塗っていく作業である。この二つの段階は、それぞれがかなり異なった方向性をもっている。

第一の段階において和泉は、黒のボールペンで花や果実の形を描いている。一見するとその線は、花や果実の部分をデフォルメしているように思われるかもしれないが、決してそうではない。和泉は、花や果実の細部を観察し、できるかぎり忠実に写し取ろうとしている。たとえば、瓜の一部分を拡大して描いた作品がある。そこでは、おびただしい数の線が画面に広がっているが、この細かい線は実際に瓜の表面に存在しているものだ。

一個の瓜は、離れて眺めている分にはなめらかな表面をしている。しかし、目を近づけてその細部を凝視するならば、表面に細かい線がびっしりと走っていることがわかる。まるで和泉は、虫眼鏡で拡大するように細部を観察しており、そこで目に映るものを克明に描写している。この段階で和泉は、写生であることに徹している。しかしその描写は、単なるリアリズムとは異なる。リアリズムとは西洋的な概念であって、対象の姿をリアルに再現することを目的にしている。和泉の写生は、もっと日本の伝統に根ざしているだろう。

ここで思い出されるのは、江戸時代の写生図である。それは、鳥や魚や植物を驚くほど細密に描写していて、あたかも写真を見るようなリアリティを実現している。しかし、写生図の目的は、単に実物のリアルさを再現することにあるのではない。当時の画家が目指したのは「気韻生動」である。気韻生動とは、対象の生気を写すこと、単なる表面ではなく内実的な生命を生き生きと描写することで、写生図に限らず当時の絵画の根本概念であった。いわば和泉の写生は、この気韻生動と同じであり、徹底した凝視によって花や果実の生命を捉えようとしている。

第二の段階で和泉は、黒い線で描いた形をアクリル絵具で塗っている。その画面は、装飾的であると同時に絢爛としていて、サイケデリックともいえる色彩の饗宴が繰り広げられている。線を描くときに彼は、対象を克明に描いているが、第二の段階では対象から離れ、まったく自由に色を塗っている。色彩は、花や果実の固有色と無関係に主観的な感覚に基づいて選ばれている。和泉は、色の選択を自分でも説明できないというのだが、それは彼の無意識的な領域に属しているだろう。

線を描く段階において和泉は、徹底した凝視によって対象に没入している。対象に近づき、彼自身がその細部に一体化しているといってよい。しかし、色を塗る段階で和泉は、対象からどんどん遠ざかっている。このとき彼は、どこに向かっているのか。おそらく和泉は、自己の精神の内部を遡行している。つまり、自分自身の無意識に向かっているといえよう。

和泉の描く線が生命的なものを志向していたとするならば、彼の選ぶ色彩は精神的なものを志向している。そして作品が仕上がるとき、生命的なものと精神的なものがひとつに融合されるのである。和泉の独自な制作プロセスが、自己の外部に存在していた生命と自己の内部に存在していた精神を一致させるのだといってもよい。こうして画面のなかに、ひとつの新しい絵画世界が誕生する。その世界は、宇宙的ともいえる無限的のイメージを秘めていて、今まさになにかが生まれるような混沌としたエネルギーに満ちている。これは、花や果実の表面に隠されていた生命的なものの神秘であると同時に、人間の無意識の奥にある精神的なものの神秘でもあるだろう。

和泉が描く花や果実には、どこか宇宙的な生成のプロセスが象徴的に示されている。花や果実の細部という小さな世界に、神秘的な無限のエネルギーが託されているのだ。細部に無限を象徴することは、絵画に限らず日本の伝統的な美術の特質である。和泉の絵画は、象徴的な特質においても日本絵画の伝統を受け継いでいるだろう。

しかし和泉の絵画は、単にイメージとしてだけで存在しているわけではない。彼の描くイメージは、絵画の形式的な側面とも不可分の関係にある。和泉は、黒い線を描き色彩をフラットに塗っている。彼は、できるかぎり平面的に描こうとしているが、この平面性は日本の伝統的な絵画に一般的な方法である。しかしその一方で彼は、絵画の物質性を強調している。

和泉は、和紙にボールペンで描くとき、かなり力をこめてペンを使っている。そのため描かれた線は、和紙に対してかすかにへこんでいる。この微妙なへこみは、和紙の物質性を強調するものであろう。そもそも和紙を使うこと自体が物質性に関わっていて、とくにそれは余白の部分に顕著である。余白は、なにもない状態なのではなく、和紙の質感とともに立ち現われるからである。さらにいえば、和泉が和紙をつねにパネルに張っていることも物質性と無関係ではない。厚みをもったパネルは、絵画が物質であるという事実を示すものでもあるだろう。

和泉の絵画には、平面的なものに向かう方向と同時に、物質的なものに向かう方向がある。平面性と物質性という対立的な要素は、ひとつの画面のなかで融合している。しかし本来、絵画とは、平面性と物質性の両面を併せもったものだろう。絵具や画布など、絵画を成立させているのは物質であって、その物質が平面的なイメージをつくりだしているからである。平面性と物質性は、絵画が成立するための前提である。

和泉のつくりだす宇宙的なイメージは、平面性と物質性の葛藤のなかであらわれる。つまりそれは、絵画そのものが成立する前提とともにある。和泉の作品は、絵画の本質的な部分に深く関わっているのであって、生命的なもの精神的なものの一致は、まさにそれが絵画であるという事実によってこそ実現されるものなのだ。彼は、現代の日本において絵画であることの可能性を真摯に追求する稀有な画家である。


2008年12月
掲載;「Integration 和泉賢太郎展」展覧会リーフレット(artspace kimura ASK?

(c)NISHIMURA TOMOHIRO

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