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生と身体感覚 ―大山慶の異色なアニメーション世界


大山慶は、短編のアニメーションを個人で制作する作家である。現在、コンピュータの普及やソフトの充実によって、かつてないほどアニメーションを制作することが容易になり、個人でアニメーションをつくる作家が増えているが、そうしたなかにあっても大山はかなり異色な存在である。大山の作品の特異さは、二つの側面において指摘することができる。ひとつは制作の方法であり、もうひとつは彼のつくりだす作品世界である。大山は、この両面において独自なスタイルを確立している。

大山がこれまで制作した作品の数は決して多くない。『いつもの日曜日』と『nami』(いずれも2003)は共同制作であるから、大山が単独で制作した主な作品は、『ゆきどけ』(2004)、『診察室』(2005)、オムニバス映画『TOKYO LOOP』の一話として制作された『ゆきちゃん』(2006)があるだけで、今回新作の『HAND SOAP』が発表される。

大山の制作方法の特異さは、アニメーションのなかに実写の画像を組みこむことにある。『ゆきどけ』で彼は、木炭画のアニメーションに目や口などの実写を合成する試みを行っており、次の『診察室』では、写真をコラージュするという独自な方法をあみだしている。大山は、自分で撮影した写真の断片を絵のなかに細かく組み合わせていて、たとえば登場人物の足が人の肌の写真の断片でつくられていたりする。一貫して彼は、画面がもつ質感にこだわっているが、写真によるコラージュは、実写の画像がもつ質感がストレートにあらわれていて、絵と実写を融合する独自なリアリティを生みだしている。

ただし、実際に作品を見て、それが写真によるコラージュであることがはっきりとわかるわけではない。写真がかなり細かい断片に分割されているため、一見するともとの素材に気づかないのである。大山は、自分の制作方法を言葉で説明してもなかなかわかってもらえないので、制作している過程を撮影したメイキングをつくっている。これを見ると、写真の断片を組み合わせて絵ができあがっていくプロセスがよくわかる。わたし自身、制作方法は以前から聞いていたものの、メイキングを見てはじめて納得し、あまりに手間のかかる作業であることに驚いたのであった。

制作方法とともに大山の作品を特徴づけているのは、彼のつくりだす作品世界である。大山の作品には、つねに独自の不気味さとグロテスクさがあり、現実にありえないイメージが描かれることも多い。しかし、彼の提示するイメージは、決して現実から遊離した荒唐無稽なものではないだろう。たとえば『ゆきどけ』は、子供が犬の死骸を見たところから、『診察室』は、病院で病気を告知されるところからはじまる。『ゆきちゃん』は、身近な人の死に接する話である。こうした体験自体は、決して日常にありえないことではなく、わたしたちの誰もが経験するかもしれない出来事である。大山の作品は、日常から出発しているのであって、そこからイメージが飛躍していく。

『ゆきどけ』『診察室』『ゆきちゃん』に共通するのは、死が重要な意味をもっていることである。『診察室』に直接死は登場しないが、主人公がかなり重い病気を患ったことは明らかで、おそらくそれは死に至るものであろう。しかし、大山の主題は死そのものではない。彼のテーマはむしろ生の方にある。死はいわばきっかけであって、死に接し、死を意識することによってあらわれる生の不気味さ、グロテスクさこそ大山の描こうとするものであろう。

大山の作品において生は、わたしたち人間が身体をもっているという事実と深く関わっている。たとえば彼の作品では、髪の毛を抜いたときの感じ、すりむいた膝に消毒液を塗ったときの痛さ、蚊に刺されたあとの痒さなどが描かれているが、こうした誰もが知っているこうした身体感覚によって、登場人物たちは自分が身体をもって生きている事実に改めて気づくのである。

大山の描く生の不気味さ、グロテスクさは、わたしたちが共通にもっている身体的な感覚に基づいている。彼のつくりだすイメージは、きわめて触覚的といえるが、本来触覚とは身体的な感覚である。大山のこだわる画面の質感も、身体感覚と無関係ではないだろう。なぜなら、質感とは触覚に訴えるものであるからだ。

身体を意識することは、わたしたちが生きている世界を意識することにもつながっている。なぜなら身体は、わたしたちが世界のなかで生きているという実感とともにあるからだ。しかし普段わたしたちは、日常的に生活している世界そのものをあえて意識したりはしない。それは、あえて考える必要もない自明な事実として受け入れられている。ところが、なにかがきっかけとなって、世界の存在そのものが意識されることがある。たとえば死は、そうしたきっかけとなるものだろう。

死は、平穏に日常を生きているわたしたちに対して非日常的なものとしてあらわれる。わたしたちは、死という非日常に遭遇することによって、日常の世界にいったん距離を置き、それまで自明なものとして受け入れていた日常を従来とは異なった視点で眺めるようになる。このとき、ごく当たり前に存在していたはずの世界が異質なものとしてあらわれてくるだろう。大山の作品にたびたび登場する幻想的なイメージは、ここに由来しているかもしれない。

大山の作品に登場する人物は、どこか孤独で、自分の生きている世界に対して疎外感を抱いているように思われる。おそらくそれは、彼/彼女の生きている世界が自明なものではなくなり、他の人と同じように日常を受け入れられなくなったからである。しかしそれは同時に、普段はあまり考えることのない生きていることの本質に目を向けることでもあるだろう。

大山の作品の主人公の経験は、その作品を見るというわたしたちの経験とも重なる。つまりわたしたちは、大山の作品を見ることによって、自明なものとして受け入れていた日常をそれまでとは違った視線で眺めることになるからである。しかし結局それは、わたしたちがわたしたちの身体に、いいかえればわたしたち自身に向き合うことでもあるはずである。


2008年11月
掲載;「第13回アートフィルム・フェスティバル」リーフレット(愛知芸術文化センター

リンク:大山慶オフィシャルウェブサイト

(c)NISHIMURA TOMOHIRO

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