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日本のアブストラクト・シネマ


抽象映画(アブストラクト・シネマ)は、1920年代初頭のヨーロッパで誕生している。一言で抽象映画といってもさまざままで、アニメーションの手法による純粋抽象の作品もあれば、実写の映像を使って抽象化を目指した作品もある。抽象映画は、映画全体からいえば特殊なジャンルに属するが、前衛映画、実験映画、アンダーグラウンド映画、個人映画といった分野において連綿とつくりつづけられているスタイルである。

これはほとんど忘れられた事実であるが、日本では早くも1925年頃に抽象映画が提唱されていた。抽象映画に注目したのは、岩崎昶、全田健吉、中野頃保、清水光といった映画評論家である。彼らは抽象映画を見たことがなかったにも関わらず、それを「明日の映画」として、つまり新しく生まれるべき映画として論じていた。しかし、この時期に抽象映画が制作されることはなかった。

実際に抽象映画を制作したのはアマチュア映画作家たちで、今日見ることができるのは荻野茂二の作品である。荻野の抽象映画には、1932年の『三角のリズム』をはじめ、1935年にブタペストの国際アマチュア映画コンテストで上位入選した『開花』『表現』『リズム』(『水のリズム』)、1937年の『スタディ』(『習作』)などがあり、当時のアマチュア映画の水準の高さを示している。しかし、この時期に抽象映画を制作したのは荻野だけではない。アマチュア映画界では、1930年代初頭から抽象的傾向が流行しており、荻野もそうした流行のなかで抽象映画を手がけていた。

残念なことに当時の抽象映画は、荻野の作品しか見つかっていないが、実際には数多くの作品が制作されていた。当時評価の高かった作品をあげると、森紅『或る音楽』(1932)、岡野卯馬吉『幻想』、金子安雄『水と光の交響楽』(いずれも1933)、阿保祐太郎『或る音楽的感興』、坂本為之『赤と青による習作 アレグロ二重奏』、今枝柳蛙『音を伴ふ習作』(いずれも1935)などがあった。『或る音楽』や『音を伴ふ習作』は、形態の動きと音楽をシンクロさせた抽象アニメーションだった。

戦後の実験映画は、前衛美術運動のなかから生まれたといってよいが、そこで制作されたのは主に抽象映画であった。実験工房(北代省三、山口勝弘)の『モビールとヴィトリーヌ』(1953)、グラフィック集団(石元泰博、大辻清司、辻彩子)の『キネカリグラフ』(1955)、具体美術協会の映画などである。いずれも作品は現存しないが、フィルムに直接彩色した『キネカリグラフ』は再制作されたものが残っている。

1960年代に入ると、自主制作による実験的な短編のアニメーションがさかんに制作されるようになる。この分野を開拓したのは、久里洋二らの「アニメーション3人の会」である。「3人の会」のメンバーは、自作を発表する「3人のアニメーション」を開催するが、1964年の「アニメーション・フェスティバル」からメンバー以外の作品を広く集め、中島興らによる抽象アニメーションが発表された。

1960年代の後半には、アンダーグラウンド映画が台頭する。この流行を受けて草月アートセンターが開催したのが、1967年の「第一回草月実験映画祭」(翌年に「フィルムアート・フェスティバル」と改称)である。公募部門では、日本で最初のコンピュータ・アニメーションとして知られる『風雅の技法』をはじめ、いくつかの抽象アニメーションが入選している。アンダーグラウンド映画では、アニメーションの手法で作品を制作する作家が少なくなかった。

その後、抽象映画に発表の機会を与えたのは、「アンダーグラウンド・センター」(のちのイメージフォーラム)であろう。この時期に登場した作家に相原信洋がいる。はじめ彼は、叙情的で官能的な短編アニメーションを制作したが、『妄動』(1974)あたりから純粋抽象のアニメーションを制作するようになっている。また1970年代半ば頃には、コマ撮り、コマ単位の編集、再撮影などの技法を使い、映画の構造そのものから表現を構築する実験映画がさかんに制作されている。そうした作品は必ずしも非具象を目指したわけではないが、結果的に抽象的な作品を生んでいる。たとえば、この時期の奥山順市の実験映画には純粋抽象に近いものがある。

コマ撮りや再撮影よる実験映画は、1980年代、90年代にも受け継がれていて、小池照男や黒坂圭太のように実写に基づいた抽象的作品をつくる作家が登場している。また、自主制作の実験的アニメーションの流れも続いていて、関口和博のような抽象アニメーションの作家を輩出している。今日において抽象映画を代表するのが石田尚志である。彼は、映画の構造を深く自覚しつつ抽象アニメーションを展開する作家である。

1930年代から今日に至るまで、抽象映画を制作する作家はつねに存在し、日本の実験映像史に独自な水脈を形成している。また抽象映画のスタイルは、ビデオアートやコンピュータ・グラフィックスにも受け継がれており、その表現は多様である。


2007年3月
掲載;『「動く絵」の冒険 越境するアニメーション』(横浜美術館)

(c)NISHIMURA TOMOHIRO

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